窒息剤(ホスゲン等)

自衛隊中央病院 箱崎 幸也・越智 文雄・宇都宮 勝之

窒息剤(ホスゲン等)

特性

ホスゲンは、無色ガスで空気より重く地上を低迷(密度が空気の4倍)し、青い干し草臭。低濃度曝露では24時間以上の潜伏期間もあり、自覚症状が乏しい時も経過観察を要する。

徴候と症状

流涙を伴う一過性の刺激症状(刺される痛み)の化学性結膜炎から、咳と胸骨下圧迫感(胸部絞扼感)を初期の徴候として呼吸器系に作用し、一定期間後に急激な肺水腫や喉頭痙攣を引き起こす。

除染方法

液体に対しては、大量の水による洗浄が必要であるが、蒸気曝露に対しては新鮮な空気が必要である。

検査法

ホスゲンに対する特異的な検査はない。

治療

蘇生・安静が第一で、呼吸障害に対して呼吸管理、その他必要な対症療法を行う。予後は、曝露濃度と時間に依存する。

ホスゲン

概要

窒息剤には、ホスゲン(CG:COCL2)や他のハロゲン化合物、 酸化窒素化合物がある。一時的に肺を損傷させるので窒息剤と呼ばれる。吸入後の症状は吸入量や時間によって異なるが、無症状期間の後、種々の程度の肺水腫を引き起こす。
ホスゲンは1812年John Davyによって合成され、第一次世界大戦中のドイツ軍は、最初毒ガスとして塩素を使っていた。その後塩素用防毒マスクが開発されたため、ホスゲン単体もしくは塩素と結合させた混合剤などに切り替え戦場で使用した。
この大戦中の毒ガスによる死者の80%以上はホスゲンによるものと考えれている。現在ではホスゲンやその関連物質は症状出現に時間を要することから、軍事戦略的利用には不適と考えられている。しかしホスゲンは染料・ポリウレタン製品・ポリカーボネート樹脂などの原料に広く使用されており、テロリストによって使用される可能性はある。

特性・作用機序

ホスゲンは熱により、一酸化炭素と塩素に分解 [COCl2→CO+Cl2] され毒性を発揮する。ホスゲンは比較的低い沸点( 7.5℃)で、急速に気化し水にほとんど溶解しない。その性質から白煙を形成するが、自然に無色の低く漂う(密度が空気の4倍)ガスに変化する。この沸点のため、しばしば他の物質と混合され毒ガスとして用いられ、刈りたての干し草の甘い匂いが特徴的とされている。
ホスゲンの正確な毒性のメカニズムは不明である。加水分解後の塩素とともに、カルボニル基(C=0)がアミノ基(-NH2)、水酸基(-OH)、硫酸基(-SH)などとのアシル化反応によっても毒性を持つと考えられている。このアシル化は、肺胞毛細血管床の透過性を亢進させる。
傷害された気道や肺胞からは組織液が漏出し、肺水腫や炎症を起こす。このため呼吸困難、低酸素血症、さらに呼吸不全を起こす。この作用は肺胞粘膜とホスゲンの直接接触により生じ、ホスゲンの静脈投与では、肺障害は起こらない。

臨床症状

ホスゲン臭を感知できる閾値は約1.5ppmであり、50%致死曝露量(LCt50)は約3,200mg/m3/minである。3ppm以上の曝露で粘膜に炎症を起こし、眼の痛み、流涙、咽頭の発赤と痛み、息苦しさ、胸痛、 吐き気、空咳、ふらつきなどの症状が出る(※15)。この初期症状は必ずしも重症度を反映しない。
ホスゲンの特徴は刺激や臭いが強くなく曝露後に無症状期があり、原因が見過ごされ治療開始が遅延することである。無症状期は吸入濃度が低いほど長く、高濃度では1〜4時間、低濃度では8〜24時間であるが、時には72時間に及ぶことがある。高濃度曝露では、粘膜刺激症状に関連した症状を呈する。
まず、流涙を伴う一過性の目の焼けるような感覚や刺される痛みの化学性結膜炎、咳と胸骨下圧迫感(胸部絞扼感)が出現し、肺胞内への組織液の漏出・肺血漿成分の滞留による肺水腫が数時間後に起こる。曝露後4時間以内の肺水腫出現は、予後不良の兆候である。
この肺水腫の発生は急激で、循環血漿量の30〜50%が肺胞内に漏出し、泡が口からキノコのように吹き出るような陸上溺水状態となる。死亡の80%は、被曝後24〜48時間に起きるが、これ以上生存すれば予後良好である。非常に高濃度を吸入した場合は、喉頭刺激から突然の喉頭痙攣を引き起こし死に至ることもある。
肺水腫は、肺胞毛細血管への酸素運搬を妨害し血中酸素濃度の減少を引き起こす。そして、十分な量のヘモグロビンが酸素化されなければ、チアノーゼが明らかになる。さらに、肺での血漿成分の滞留は循環血液量の減少や低血圧につながり、脳、腎臓、他の重要臓器への酸素運搬を障害する。
臨床検査では、特徴ある所見はみとめられない。

鑑別診断

ホスゲンは催涙/嘔吐剤との鑑別が重要で、臭いや高濃度吸入における粘膜刺激症状、呼吸困難、遅発性肺水腫によって区別される。催涙/嘔吐剤は、眼および上気道に焼け付くような刺激感がみられるが、これはホスゲンによるものより強烈でホスゲンの特徴的な臭いを伴わない。
神経剤では、呼吸困難と同時に水様の喀痰を伴う。マスタードの呼吸障害は通常遅発性であり、末梢気管支より主気管支により影響を及ぼす。
さらに、マスタードの吸入では偽膜形成を伴う気道壊死を引き起こし部分的もしくは完全な上気道閉塞を引き起こす。マスタードの吸入では最終的に肺出血を引き起こすが、ホスゲンでは肺水腫となる。

検査所見

ホスゲン被曝の鑑別・同定に、特異的な検査所見はない。ヘマトクリットの増加は肺への血漿成分の漏出による血液濃縮を反映し、動脈血ガスは早期の肺水腫に認められる非特異的データである動脈血酸素分圧の低値を示す。高濃度ホスゲン被曝の後、比較的早期に最大呼気量の減少がみられ、この減少が気道損傷の程度・気管支拡張剤治療の効果を評価するのに役立つ。
肺のコンプライアンスの低下や肺拡散能の低下は、肺の間質液量増加の敏感な指標になりうる。胸部X線は、曝露後から2、4、8時間後の定期的な撮影が推奨され、早期所見は肺の過膨張である。その後、心血管影の変化や心拡大を認めない肺水腫の像を呈する。

トリアージ

ホスゲン被曝後12時間以内での重症の呼吸困難や喘鳴・肺水腫患者は、緊急治療群(赤)に分類される。息切れはあるが頻呼吸、 喘鳴を有する患者は、治療待機群(黄)とされ、厳重に観察され1時間ごとに再トリアージされる。曝露はあったが症状や徴候がないかごく軽症の場合は、最小治療群(緑)に分類される。
緑色タッグ患者は、安静にて経過観察し 2時間おきに再トリアージされ、被曝後24時間経っても無症状で胸部X線写真、動脈血ガスが正常であれば解放する。
被曝後6時間以内に肺水腫、チアノーゼ、及び、低血圧が発現した患者は、死亡群(黒)に分類され、一般的にこのような患者の救命は困難である。
被曝後6時間かそれ以上経過してからの肺水腫出現患者は、集中治療によって生存する可能性が高い。被曝後12時間後以上経って症状が出現した患者の予後は比較的良好で、集中医療にて殆ど全症例が救命可能である。

治療

さらなる被曝を阻止が、きわめて重要である。汚染環境から傷者を運び出したり、適正に装着したマスクによってそれ以上の吸入を防ぐことである。衣服や皮膚に付着した液状のホスゲンも、同様に速やかに除染しなければならないが、蒸気曝露に対しては非汚染地域への移送が必要である。
ホスゲン吸入時には症状・兆候は遅れて出現するため、自覚症状が乏しい時も直ちに新鮮な空気の場所に移送し経過観察とする。疲労や運動により症状が悪化するため、軽症者を除き全ての患者は必要な場合を除いて歩行を許可してはいけない。ホスゲン被曝時には、約24〜48時間の経過観察が必要であり、3〜6時間の観察でも進行例を見つけうる。
初期治療は、他の毒性物質の吸入と同様に、呼吸管理が最優先である。軽度から中等度症状の患者では、酸素投与と安静で治療する。呼吸困難がみられる重症例では、挿管などの呼吸管理が必要とされる。
嗄声や喘鳴患者では、喉頭痙攣の危険に直面しており、気管内挿管や気管切開が必要である。気管支痙攣は、気道過敏症を持つ患者において発生することがあり、テオフィリンやβ刺激薬などの気管支拡張薬を投与しなければならない。
ステロイド療法も適応があると考えられており、メチルプレドニゾロン700〜1,000 mgを初日に投与し、以後症状にあわせて逐次減量投与する。細菌感染の危険性が高いので、ステロイド療法には慎重な投与が推奨される。
肺水腫の予防・治療には、陽圧換気の早期実施が有効とされている。陽圧換気は心臓への静脈還流量を減少させ、低血圧を増悪させるので、循環血液量の管理とショックパンツ(MAST)が必要となることがある。肺水腫予防に、ヘキサメチレンテトラミンが試みられたが、事前投与でしか治療効果はない(※16)
ヘキサメチレンテトラミンは、第一次世界大戦当時ホスゲン用防毒マスクの吸収缶の中和剤の1つである。著しい血液濃縮がみられ輪液を必要とするが、過剰輸液は肺水腫を誘発増悪し感染症などの合併症を引き起こす。中心静脈圧やスワン・ガンツカテーテルによる、循環動態のモニタが必要である。その他、低酸素症や低血圧の予防/治療にも留意しなければならない。

ホスゲン吸入時の身体的影響(※17)

ホスゲン濃度
(ppm)
症状
0.1 最大長期許容濃度
0.5 かすかに臭気を感じる
3〜4 目やのどに刺激を感じ、長時間の曝露で生命の危機
5 数分後に咳が出現し、短時間曝露で中毒症状が発生
10 短時間(30-60分)曝露で肺障害が出現
25 ごく短時間(30分以内)で、重症中毒症状が出現
50以上 曝露直後に、致死的