ルワンダ紛争による難民支援

内戦で死体が累々と並ぶ

カリタス孤児施設の子供達ルワンダ共和国は、中央アフリカに位置し、アフリカのスイスと言われるくらいアフリカでも涼しいところです。
当時日本でも話題を集めたルワンダ難民事件が起きたのは1994年4月6日。ルワンダキガリ空港に着陸態勢に入ったルワンダ大統領専用機が対空ミサイルで追撃され、ハビヤリマナ大統領が死亡するという事件を発端に、それまで停戦状態にあったルワンダ内戦の炎が燃え上がったのです。
前日まで仲良く談笑していた人たちが、斧、ナタ、ナイフなどで殺し合い、人口750万人のうち50万人が惨殺されてしまいました。
さらに、人口の4分の1に当たる200万人が重い荷物を持ち、子供の手を引いて何百キロも歩いてタンザニア・ザイール(現在のコンゴ)などの隣国に逃げ込み難民となったのです。
難民キャンプは、コレラ赤痢などの伝染病などが流行り、1日2,000人〜3,000人の死体が道路わきに累々と並ぶ事態となりました。

ルワンダ紛争による難民支援記録ビデオ


頼もしく感じた国境なき医師団の活動

キャンプでのミルクの配給マスコミの報道で医療従事者の派遣要請を知った私は、すぐに応募しました。すると、緊急事態につき急遽出国の要請となり、1994年8月27日、医師1名、薬剤師1名、看護士1名、調整員2名で成田を出発しました。
ザイール共和国のゴマ市に到着したあと、すぐにUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を表敬訪問し、調査資料を頂きながら現地の状況の説明を受けました。
説明によると、我々が赴くギブンバキャンプ地は、現在は亜急性期だが、7月の急性期の頃は居住区とトイレの区別がなく、また水の供給体制が整わず汚れた水を補給したため感染症が蔓延したとのことでした。
「CholeaOutbreak:GomaZaire」の資料を見ると、7月21日から7月30日まで、集中的に蔓延してピークを迎え、やがて終焉するという伝染病の特徴であるデータが記されていました。
その後、UNHCRの指導により、道路左側のジャングル方面はトイレや汚物を置く場所、右側はビニールシートのテントを設営させた居住区にすることが決定しました。
また、水補給のトラックで、7月28日から8月9日まで、1日1人5Lまでの供給が出来るようにしました。1人1日3Lから5Lの水が必要な根拠は、コレラ、赤痢で脱水症状になった時、ORS(Oral Rehydration Salts)経口補液剤の必要量から算定しました。
この水のプログラムを完成させ支えたのはNGOであるMSF(国境なき医師団)のチームです。タンクローリー車が、キブ湖からキャンプ地までMSFの旗をなびかせながら何回も往復していく様子を見て非常に頼もしく感じたものです。
キブンバキャンプ地には、15万人の難民がルワンダと結ばれた道沿いで生活していました。ジャングルから運んだ小枝に青いビニールシートを掛けただけのテントの中で、WFP(国連世界食糧計画)から配給されたトウモロコシや小麦粉を煮炊きして食料にしていました。雨期が近づくなか雷やヒョウまで降る状況で朝夕は特に寒く、難民はテントの中で過酷な生活を強いられていました。
こんなエピソードもありました。 我々が夕方診療所で仕事を終えたころ大雨になり、一段と寒さが増してきたときのことです。半袖の老人と子供が「泊まる所がないので診療所のテントに一夜泊めてくれ」と懇願するのです。話を聞くと、テントと家財道具一式を力尽くで奪われたようです。弱者がどんどん犠牲になっていくという、難民を取り巻く過酷な現実の一段面です。
私たちは、診療所の警備員に毛布と食事を与えるように指示して診療所を離れました。次の日の朝、元気にテントから出て行く2人の姿を見てホッとしたものです。

2ヶ月で5,200人が受診

メンバーの集合写真さて、次は医療活動の話をしましょう。
このキブンバキャンプ地での難民受け持ち人口5万人を、各国際医療機関、各NGOの診療所が援助にあたっています。我々の診療所は2ヶ月で新患者が3,358人、旧患者1,946人、合計5,205人の受診がありました。患者の疾患は、出血性下痢620人、下痢378人、肺炎812人、皮膚169人、婦人病25人、回虫539人、マラリヤ47人、栄養失調47人(赤ちゃんが多い)などで、特に消化器感染症、呼吸器感染症、回虫、皮膚感染症が目立っています。(松浦多賀雄医師データ)
マラリヤはこのキャンプ地では寒さのため発生しないので、ルワンダ国内で発病したものが入ってきたのではないかと思われます。
医療品は一般名で処方されます。医師は、WHOの「疾患構造−標準治療指針法」(The Patient Morbidity-Standard Treatment Method、簡単に言えば「疾患名と約束処方」)で処方します。現地では、日本流書法は適当ではなく、開発途上国の医療状況に合わせた医薬品を使用するのが国際医療の決め事なのです。
また、ゴマ市のインド人の経営している薬局で注文すれば、医薬品は2日後には入荷することができます。しかし、何処から運んでくるのかは、教えてもくれません!?


食事第500円で信頼関係が崩壊

ルワンダの医薬品倉庫さて、そろそろ怖い話に移りますか。
難民キャンプの診療所では、地元ザイール人のドライバー、ワーカー、看護婦のほか、ルワンダ難民の通訳、ワーカーを20人位雇用しています。
彼らは、毎日トラック3台分に分乗し、朝市で昼食用の油揚げパン、バナナを人数分購入してきます。金額は全部で、日本円にすると500円位なので、彼らに無料で昼食を提供していました。彼らは腹一杯になるまで食べ尽くします。彼らにとって食べることは重要な関心事なのです。日本人は、「宿泊地に帰ったらいつでも食べることができるから」と、コーヒーで済ませることが多かったと思います。
ところが、我々と一緒に来た日系アメリカ人の調整員、M.J女史が、アメリカ”一国主義”の性格が芽生え始めたのか、英語力に物を言わせて「スーパーバイザー」として仕切るようになったのです。彼女は、1日1回の衛生電話で本部への定期報告も会議せずにに、独断でこのプロジェクトに対する疑心安鬼な内容をヘッドクオーターに送信していました。彼女のそのような態度に困り果てていた頃、最悪な事件が起きてしまったのです。
それは、昼食サービスのことでした。彼らと雇用契約書は取り交わしていたのですが、彼女は「給料の中に、昼食代も入っているので提供しません!」と、唐突に断言したのです。彼女は調整員で会計も兼ねていましたので、次の日から昼食の無料提供は行われなくなりました。
さあーて、昼食の時間になりました。ザイール人の看護婦、ドライバー、ワーカーたちが日本語で「腹減った」の大合唱。フィリピンから応援に来てくれているナースたちも泣きながら「本部は食事を提供すると約束しているのに、嘘つき」と、仕事を投げ出して勝手に宿泊所に戻り食事を取り始めてしまったのです。
薬局での活動多国籍医療団のピンチです。たった食事代500円で信頼関係が崩壊してしまったのです。このことはセキュリティーにも重大な影響を及ぼします。危険な状況になった時、信頼度の高い情報をもたらし、安全に誘導してくれるのが現地のスタッフだからです。日本チームの表情がこれ以来、不安げな顔になってしまったのはいうまでもありません。
その後、M.J女史は危険を感じたのか、ナイロビに買い物に行くと言って出かけて、アフリカから敵前逃亡してしまいました。この事件は、プロジェクトの続行か撤退かの問題にまで発展してしまいました。
この一連の出来事が影響したのか、我がチームのトラックがハイジャックに遭遇し、PKOである日本の自衛隊の装甲車が出動するという事件が起こったことを、マスコミ報道でご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。まさに、「食べ物の恨みは恐ろしい!」です。
私がザイールのキブンバキャンプを去る日が近づいたある日、ルワンダ難民で一番紳士であった通訳のマポリネール氏(元教師)が、「PKOの自衛隊や日本人がいなくなったら、我々ルワンダ難民のワーカーは殺されるだろう」と語ったことがありました。
この言葉は、半年過ぎた頃、事実となってしまいました。あの優秀で純粋な若い青年たち、「ルワンダに平和をもたらす大統領になる」と約束してくれたあの人たち全員が殺された・・・。
国際社会が注目しなくなった時、弱者が一番被害を被ることがよく分かりました。これから起きるだろう紛争、戦争、テロ災害などに、国際社会は継続して注視していかなければならないと強く感じました。